「にんげんっていいな」の歌詞についてアレコレと考えてみる

2018/11/13

童謡

t f B! P L

 

どうも、ジョンです

 

「あれは子熊がルールを勘違いしている歌らしい……」

十数年前、こんな話がラジオから聞こえてきました。

“あれ“というのは、童謡『にんげんっていいな』のこと。

山口あかりさんの作詞で、アニメ「まんが日本昔ばなし」のエンディングテーマとしても有名な歌です。

 

そういや僕も、子供の頃は不思議に思いながら聴いていましたよ。

初っ端から

くまの子みていた かくれんぼ
おしりを出した子 一等賞

ですからね。

どういうことやねん

 

でもこれが「ルールを勘違いしていた」とするなら、何となく分かる気がします。

要は“最初に指された子”を見て一等賞だと勘違いし……

偶々それが「おしりを隠せていなかった子」だったわけです。

そう考えると微笑ましい光景ですよね~。

 

……とまあ、そんな事を最近ふと思い出しまして。

せっかくなんで、もう少し歌詞について考えてみようかと思います。

子熊の勘違い説

実は先ほどの話って、諸説ある内の一つだと言われているんですよ。

後で出てきますが、他には「個性の尊重」みたいな解釈もあったり……。

ただ僕としては、やはり“子熊の勘違い説”が一番有力だと考えています。

 

そりゃあ、ルールを知っていたら変てこな間違いに思うかもしれませんけどね。

でも……動物ですから。

自分たちが関わることのない“人間”の遊び。

それを初めて見たのなら、どう捉えてしまっても無理はないでしょう。

 

……というか

寧ろ僕は「子熊が勘違いをするから、この歌は成立する」と思うんですよね~。

 

ちょっと歌詞を見てください。

くまの子みていた かくれんぼ
おしりを出した子 一等賞
夕焼けこやけで またあした またあした

いいないいな にんげんっていいな
おいしいおやつに ほかほかごはん
子どもの帰りを 待ってるだろな
ぼくも帰ろ お家へ帰ろ
でんでんでんぐりがえって バイバイバイ

 

サビ以降の歌詞は、明らかに“誰かの視点”です。

まぁ「にんげん」と言っているし、内容も人間を客観的に見ている感じなんで、普通に考えたら動物でしょう。

ならば唯一登場している子熊だと考えるのが自然です。

 

でも正直な話、僕はこの考えに違和感がありました。

だって……サビの歌詞には「誰の視点か?」が明確に示されていませんからね。

誰かが客観的に見ていることは分かっても、誰の主観で見ているかまでは分からない。

そんな曖昧な状況で子熊だと決定づけるのは「内容が動物の発言っぽい」という一点のみ。

 

これが何か気持ち悪かったんです。

もっとハッキリと示されてなければ腑に落ちないというか……。

変な話、これを「子供の視点」として考えられなくもないですから。

 

自分たちの事を指して「にんげんっていいな」と思ったのかもしれない。

家に居る親に対して「子ども(自分)の帰りを待ってるだろな」と思ったのかもしれない。

友達が帰るから「ぼくも帰ろ」と思ったのかもしれない。

 

でも、そうなってくると「何の歌やねん?」って話ですよ。

子供が外で遊び、夕方になって家に帰る。

その何気ない日常の様子を“子供自身”が客観的に見る……。

ハードボイルドか

 

ま、べつにそういう歌があっても悪かないですけど、あくまでこれは童謡ですからね。

やはり「動物が人間を客観的に見ている」という方がしっくりきます。

一つのストーリー

動物が人間の子供を客観的に見ている。

サビ以降の描写は、これで間違いないでしょう。

そして、それは唯一登場している子熊だろうと見当は付きます。

 

でもサビ以降の歌詞には「誰の視点か?」が明確に示されていません。

だからイマイチ内容の筋道がしっくりこない。

……で

この話と“勘違い”にどういう関係があるのか?

 

結論を言っちゃうと……

「かくれんぼを見ていた子熊がルールを勘違いしている」という描写。

これが「子供を見ている子熊の視点」を描いています。

つまり……この歌は最初からずっと“子熊の主観”だったわけです。

 

……さて

ここで一度、僕の解釈と合わせた歌詞を見てください。

くまの子みていた かくれんぼ
おしりを出した子 一等賞

子熊が人間の子供たちの様子を見ている。
「どうやら、お尻を出したあの子が一等賞らしい……」

夕焼けこやけで またあした またあした

日が暮れて、子供たちが帰って行く姿を見ている子熊。

いいないいな にんげんっていいな
おいしいおやつに ほかほかごはん
子どもの帰りを 待ってるだろな

「人間っていいな」
「きっとあの子たちの親は、美味しい食べ物を用意して帰りを待っているんだろう」

ぼくも帰ろ お家へ帰ろ
でんでんでんぐりがえって バイバイバイ

「じゃあ、そろそろ僕も家に帰ろうかな……」

 

どうです?

この歌が“子熊の視点”で描かれた1つのストーリーになりませんか?

「動物ならルールを勘違いするだろう」というだけじゃなく、理屈で考えても子熊の勘違い説は的確な解釈だと僕は思います。

 

……ちなみに

実は僕、勘違い説を知るまでは子熊が“モブキャラ”やと思っていたんですよ。

くまの子みていた かくれんぼ

これだけじゃ「子供の草野球を見ている散歩中のオジサン」が如く、偶然その場に居合わせただけとしか思えなかったんで。

 

なんなら自然の中で遊んでいる様子を描くために、わざわざ森の動物を登場させただけやと思っていました。

だから殊更、サビの歌詞に違和感があったんですよね~。

二番に戸惑う

今回「にんげんっていいな」を考察するにあたって、改めて歌詞を調べたんですが……。

この歌って……二番があったんですね~。

僕は『まんが日本昔ばなし』のエンディングテーマでしか聴いたことがなかったんで、全く知りませんでした。

どうやらアニメで流れていたのは一番+二番のサビ(大サビ)だったようです。

 

……で

初めて二番の歌詞を見て、正直、少し戸惑いました。

ちょっと見てください。

もぐらがみていた 運動会
びりっ子元気だ 一等賞
夕焼けこやけで またあした またあした

いいないいな にんげんっていいな
みんなでなかよく ポチャポチャおふろ
あったかいふとんで 眠るんだろな
ぼくも帰ろ お家へ帰ろ
でんでんでんぐりがえって バイバイバイ

 

今度はモグラが運動会を見ています。

そして、ここでの勘違いが……「びりっ子元気だ一等賞」

どういうことやねん

ハッキリと“びりっ子”て言うとるがな

 

かくれんぼには順位付けの概念がないから、それを見て「最初に指されているから一番かな?」と勘違いするのは分かります。

でも運動会って、明らかに順位を競っていますからね~。

そこで最下位になった子を一等賞だと勘違いできるんでしょうか?

 

……ちなみに

この二番の歌詞に対して、これまでの“勘違い説”とは別の角度から解釈しているものがありました。

びりっ子=足が遅い子
元気だ一等賞=元気なことは良い事だ

つまりは「たとえ足が遅くても、元気なら良いんだ」みたいな。

 

そして、その考え方を一番にも当てはめて……

おしりを出した子=簡単に見つかるドジな子

だから「どんくさくても良いんだ」みたいな。

 

更に、これらの解釈から……

「たとえ人より劣っていたとしても、子供が元気でいてくれたらそれでいい」
「君はそのままでも素晴らしいんだ」

そんなメッセージが込められている歌だという結論に至るんだとか。

 

素敵やん

心温まるやん

……ま、僕は違うと思うんですけどね。

メッセージよりもストーリー性

確かに、子供へ向けたメッセージとしては尤もらしい内容です。

「子供の個性を尊重する」なんてのは、子育て論や教育論に於いて必要でしょう。

でもこれじゃ……他の歌詞が“完無視”なんで。

 

先ほどから言っていますが、この歌は「動物が人間の子供を客観的に見ている」という内容です。

サビの歌詞が誰かの視点で描かれていて、唯一それに当てはまるのは最初に登場する動物だけ。

だから冒頭で「子供を見ている動物の視点」を描く必要があります。

 

それなのに……「たとえ足が遅くても、元気ならそれでいいんだ」

誰やねん?

これは明らかに子供より目上やから言えるセリフで、しかも子供を見守る立場の視点です。

でも子熊は文字通り子供やし、モグラも恐らくは子供なんで彼らの視点じゃありません。

 

つまり、この解釈ではサビの「誰の視点か?」を明確に示せていない。

それどころか……“謎の視点”が新たに出てきちゃっています。

だから僕は違うんじゃないかって思うんです。

 

まぁ他にも違和感はありますけどね……。

例えば、一番の歌詞には一等賞になる“理由”がない点とか。

そりゃあ勘違い説のように想像を膨らませるパターンなら、幾らでも理由は考えられますよ。

ただ、そもそもの話……二番の解釈が歌詞を直接繋げた形ですからね。

「びりっ子(でも)元気だ(から)一等賞」てな感じで。

 

でも一番の歌詞には、二番のような「元気だ」という言葉がありません。

「おしりを出した子(でも?)(だから?)一等賞」

いくらなんでも、これで「どんくさくてもいいんだ」というのはチョット……ねえ。

どうも二番の「それでもいいんだ」的な解釈ありきでこじつけているような……。

 

そりゃあ僕は、ぶっ飛んだ発想やトンデモな理屈が好きですけどね。

でもさすがにパターンや法則を無視して成立させるってのは、何か違うような気がします。

 

あと、これは完全に個人的な感覚なんですが……

歌の意味が「たった一行の歌詞」で成り立つってのも変かと。

短い童謡なら分かりますけどね。

 

でもAメロBメロがあって、サビもあって、更に二番に分かれていて、最後には大サビまである。

そこまで長い歌なのに「歌い出しの一行だけで意味が成立する」ってのは、歌詞を考えるのが好きな僕としては少し寂しいような……。

 

……

……あ!

そういえば僕が考える二番の解釈を忘れていましたね。

モグラは最下位の子を見て一等賞だと勘違いできるのか? 

モグラの勘違い説

正直なところ、かくれんぼと違って「最下位で走る子供」を一等賞だと勘違いするのは厳しいところです。

ただ最初の方でも言いましたが、これは動物ですからね。

自分たちと関わることのない人間の運動会。

それを初めて見たとすれば、多少は無茶な理屈でも通ります。

 

だから僕はこう考えました。

もしかしたら“拍手”と“声援”の大きさで勘違いしたんじゃないかと。

「一番大きな拍手と声援を貰っているから、あの子が一等賞かな?」ってな感じで。

 

運動会ってのは面白いもんで、ドンケツを走っている子には多くの声援が送られます。

特に幼稚園や保育園なら、下手すりゃ1位の子より応援されているかもしれません。

更にゴールを迎えたら「よく頑張った」と大きな拍手が送られることでしょう。

だからモグラは、その様子を見て勘違いしたわけです。

 

まぁ我ながらトンデモな理屈ですが、これでも確信はありますよ。

だって……わざわざ“運動会”というイベントにしていますからね。

言ってしまえば、単に子供たちで遊んでいるだけなら“駆け比べ”とすればいいはずです。

でも運動会としているのは、そこに勘違いを生む要素があるからなんでしょう。

 

そう考えると、やはり拍手や声援がカギだと思うんですよね~。

モグラは大きな声援と拍手が送られている子を一等賞だと勘違いした。

それが偶々、元気に走っている“びりっ子”だった。

二番の解釈は、これで決まりでしょう。

 

……ところで

勘違い説には否定的な見解もあるんですよね~。

「人間について理解するほど知能が高いなら、簡単なルールを間違えるはずがない」みたいな。

 

確かにサビの歌詞を見れば、動物は人間について理解しているようにも思えます。

おやつやご飯を用意して親が待っていることや、お風呂に入って布団で寝ることを思い浮かべていますからね。

 

でも……それに近いものは動物の日常にもあるわけで。

子供のためにエサを獲ってくる親。
水浴びや温泉に入る習性。
快適な巣穴や寝床を作る作業。

こういうのって人間と動物では形式が違うだけで、わりと基本的なことなんじゃないかと。

 

逆に言えば、ご飯や風呂、布団で寝ることを分かっている人間の2~3歳児でも、鬼ごっこのルールまでは理解するのが難しかったりします。

だから動物が人間について多少は理解をしていたとしても、それだけで「勘違いするはずがない」とは言い切れないでしょう。

 

まぁ正直なところ……

べつに僕は動物が勘違いしていなくてもいいんですよ。

「これは動物の視点だ」ということが明確に示されて、その後のストーリーに繋がっていれば、冒頭の解釈は何でも構いません。

ただ今のところは他に考え付かないんで、やはり“勘違い説”が有力だと思っていますけどね。

何気ない日常の幸せ

この歌は「子熊やモグラが人間の様子を見て勘違いしていた」というストーリーだった。

何かこれで話が終わりそうな気もするんですが……。

サビの歌詞についても色々と考えられそうなんで、もう少しお付き合いください。

 

……で

この「にんげんっていいな」というサビの歌詞なんですが……

子供の頃は正直ピンときませんでした。

 

(一番)
いいないいな にんげんっていいな
おいしいおやつに ほかほかごはん
子どもの帰りを 待ってるだろな

(二番)
いいないいな にんげんっていいな
みんなでなかよく ポチャポチャおふろ
あったかいふとんで 眠るんだろな

 

動物が「いいな」と思い浮かべているのは、わりと何気ない日常の一コマです。

ていうか、子供のいる家庭には割と当たり前の光景かもしれません。

だから僕もアニメを観ていた当時は「言うほどのもんか?」なんて思っていました。

 

でもこれって……本当は幸せな事なんですよね~。

親が自分の帰りを待っていたり、家族で仲良くお風呂に入ったり。

“あったかいふとん”というのも、一緒に眠る様子を描いているようにも思えます。

 

親の愛情に包まれ、そして家族と一緒に過ごす日々。

子供にとって、これほど幸せなことはありません。

だから子熊やモグラは、その光景を思い浮かべて「いいな」と思ったんでしょうね。

 

……ん?

いやいやいや

この幸せって……人間も動物も大して変わりませんよね?

 

先ほど言いましたが、サビの歌詞で描かれている光景は動物の日常にも近いものがあります。

ならば動物にも親兄弟がいて、そこに愛情があると考えるのが自然です。

じゃあ、何を以ってして「にんげんっていいな」と思ったのか?

 

実はこれ……そんなに深く考える問題じゃないかもしれません。

子熊やモグラは、人間の子供が遊んでいる様子を見ていました。

そして夕方になり、子供が帰っていく姿を見ながら色々と思い浮かべます。

「ご飯を用意して親が待っているのかな?みんなで一緒に過ごすのかな?」
「いいな、にんげんっていいな」

 

ここで大事なポイントは、お互いに“子供”だということです。

動物の子供が人間の子供を見ている。

つまりこれは……よその家を羨ましがっているだけなんですよ。

え?

発想が斜め過ぎました? 

ないものねだりで気付くこと

子供の頃は、誰でも他人の家庭を羨ましく思ったりするもんです。

家でクッキーを焼いてくれる美人の母親
守ってあげたくなるような可愛い妹
カッコ良くて頼りになる兄

もちろん家族だけじゃなく、その家の生活スタイルに憧れることもあるでしょう。

違う環境、違う境遇で生きていると、多少は隣の芝が青く見えたりしますからね。

 

子熊やモグラにとっては、それが人間だったという話。

かくれんぼや運動会のルールは、ずっと見ていてもよく分からない。

でも彼らの日常が幸せに思えるし、それが自分には羨ましく感じる。

だから「にんげん(=あの子たち)っていいな」と思ったわけです。

 

確かに「よその家を羨ましがっている」なんて言うと、妙に生々しい感じがして童謡の世界っぽくないかもしれません。

でも「動物が人間を羨ましがっている」という図式は、余りにも立場が一方的過ぎますからね。

人間賛歌やあるまいし。

それなら、ないものねだりで「(動物の)子供がよその(人間の)子供を羨ましがる」という方が可愛らしくて僕は好きです。

 

ちなみに最後の歌詞なんですが……。

ぼくも帰ろ お家へ帰ろ
でんでんでんぐりがえって バイバイバイ

一見すると、単なる話の締めくくりにも思えます。

「あの子たちも帰ったし、日が暮れているから自分も帰ろうか」みたいな。

でもこれまでの話から考えていくと、わざわざここで「お家へ帰ろ」と言っている点が気になりました。

 

もしかしたら、こういうことなんじゃないでしょうか?

子熊とモグラは人間の子供が帰る姿を見て、あれこれと“幸せ”を思い浮かべた。

そして……それを自分に重ねて「ぼくも“お家”へ帰ろう」と思った。

 

「にんげんっていいな」と思いながらも、何だかんだで自分たちの幸せも分かっている。

いや、もしかしたら“ないものねだり”をしたおかげで気付けたのかもしれません。

僕はそんな気がします。

 

いかがでしたか?

今回“子熊の勘違い説”をきっかけに色々と考察してきました。

 

結局「にんげんっていいな」は何の歌だったのか?

「動物の子供が人間の子供を見て、ちょっぴり羨ましく感じた」

ただ、それだけの物語。

これが僕の結論です。

 

でも動物の視点で「にんげんっていいな」と考えることで、色々と気付けたこともありましたね。

……ん?

もしかして、そういう歌だったのかも……。

 

それではまた、別の話でお会いしましょう

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